人種差別について

日本って島国で、周りは海に囲まれていて、他の国とは陸が繋がってない。日本の中に住んでるのは殆どが日本人で、使われている言語は日本語。もちろん町で外国人もちらほら目にするし、夜のギロッポンとか行けば外人だらけだったりもする。

そんな環境で育ったぼくは外国人を意識するような気持が芽生えることもなく育った。初めて外国人を身近に感じたのは、小学校3年生くらいの時、他のクラスに転校生が来て、その男の子が中国人だった時だ。

転校生自体がもの珍しいし、ましてや日本人ではないということで異質なものと思って興味を持ったのだろうか、休み時間にその子がいるらしい場所に見に行ったのだった。場所は確か給食を作る台所の前の広場で、何もないけど広めのスペースだったような記憶がある。

その子の周りには人だかりができていた。みんな好奇心をそそられたのだろう。そして、なんだか暴力的な雰囲気も漂っていた。なぜならその子はカンフーのポーズをして臨戦態勢になっていたからだ。周りの子がその子を小突いたりして、その男の子が負けじとやり返しているようだった。

その場面を客観的に見ていたような気がするのだけど、もしかしたら自分がその子にちょっかいを出していたやつの一人だったかもしれない。

人間は異質なものに興味を持つし、そしてそこから生じるであろう変化を嫌うのだろう。自分が慣れ親しんだ安定した環境が崩れてしまうことは、自分の生活、さらには自分の命に影響があると感じるからなのかもしれない。

不思議なことにその子を見た記憶はそれ以降ない。まあおれは昔のことはすぐに忘れてしまうから仕方ないんだけど。逆に覚えてるってことは強く印象に残ったからなんだろう。

実際はそれ以前にもあったのかもしれないけど覚えてないから、これが人生で初めての外国人との交流ということだ。なんか違うなんか変だって感触。

外国に住むと、その国の人にとっては外国人

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その数年後、ぼくは外国人になる事になった。不思議な響きだが、マイノリティになったという方が分かりやすいかもしれない。ぼくは日本を出て東南アジアの国マレーシアに住むことになった。

その国の人にとっては日本人であるぼくはマイノリティの外国人だ。違う種類の人として見られる立場になったのだ。とはいえ日本人が集まる日本人学校に通ってたし、生活上は日本人に囲まれて過ごしていたので外国人として扱われているなと意識したことは無かった。

そもそもマレーシアという国は多民族国家で、マレー系、中華系、インド系、日本人を含むその他人種が入り乱れている。7割を占めるマジョリティなのは地元のマレー系だが、街にはたくさんの異なる人種が入り乱れている。肌の色も、来ている服装も、話す言葉も、信じる宗教もすべてが異なっている人たちの集まりだ。

つまりお互い異なることが当たり前。みんな違って当然というのが大前提に会って、その中でお互いを受け入れて暮らしている。

そんな環境だからマイノリティの日本人であるぼくが街をてくてく歩いていても、フードコートでご飯を買って食べていても、何も違和感はないし、そのことで嫌な顔をする人もいないのだ。自分とは違う雰囲気の人がいても、違和感を感じることはない。相手がそうだから、自分も基本的にはそう思う。

心のどこかで人種差別している

多民族国家で過ごす人は、異なることに寛容だ。慣れている。でもやはり心のどこかでは人種の区別はしている。正直なところ差別もあると思う。区別というのは異なることを認識するだけだが、差別というのはその間に優劣の差があるという感情が含まれている。

例えば日本人は中国人を下に見る雰囲気がある。下品だとか、図々しいというイメージが強く、それを理由に中国人全体を毛嫌いしているように思える。自分もそういった意識を持っていた。

中国を知ることでそういったネガティブな捉え方は変わっていくもので、今では逆にその逞しさに魅力を感じるようになったのだが、以前は良く日本人が言うように、中国人はがさつで非文化的だと思っていた。だから中国人が近くで大声で話してたり、シャツをまくってお腹を出していたり、道端に唾を吐いているのをみて、あーマジうざい、と思っていたし、そんな中国人をレベルの低い人種だと主観的に思っていた。

そういった、断片的な体験をもとに全体的に差別をしている事は誰にでもあることだろう。例えばある人は住み込みメイドを雇っていて、そのメイドがフィリピン出身だからといった理由だけで、フィリピン人は貧しい国でその国の人々は~、と決めつけてしまっている。木を見て森を見ずになりがちなのだ。

全体イメージと個別体験の差

色々な国に対してそれぞれの偏見を持っていることは否めない。例えばインド人はどうだとか、フィリピン人はどうだとか、そういった国ベースでの大体のイメージだ。

国ベースよりもさらに大きな地区ベースで捉えて、ヨーロッパは先進的で文化レベルが高く、アメリカは自由で積極的、東南アジアは発展途上で貧しい、など一般的なイメージはあるものだ。

これらのイメージは抽象化のたまもので、大きな範囲で物事をとらえるには効率的な方法で、捉えているイメージも方向性としては正しく、当てはまることが多い。ただ実際にその場所に訪れてみるとそれまでの想像とは異なるという事は容易に起こりうる。

生身で体験するその国や人の雰囲気は、創造とは違う。個々人に個性があるのだから、その個性が全体像と異なるとしても全く不思議ではないし、実際乖離していることはあるのだ。

つまり、全体的なイメージとしての偏見をもとにその国の特性を決めつけることはできないということだ。イメージはイメージとして捉えておきながらも、そのイメージだけで判断をすることはできない。対象を多方面から検討してやっと公平な判断ができるのだ。

人種差別を避けるために

人種差別を避けるためには、差別する側と差別される側の双方が歩み寄らなければならない。

差別する側は、自分が持っている偏見を疑い、より多くの経験を通して多角的に対象の国や人種をとらえなければならない。例えばその国に訪れてみて、その国の風習を体験し、その句の人と会話する。それだけでイメージは変わるもの。世の中にはそんなに悪い人はいないのだ。

そして差別される側も変わらなければならない。差別反対と叫んでいるだけでは何も解決sれない。差別をしてはいけない法律ができても、それは強制的に防止しているだけで、心の奥底にある感情までは変えられない。その状態で差別がなくなることはない。

差別される側には差別されるだけの理由があるはず。悪いイメージを相手に持たせてしまう言動があるはず。それを改善するべきだ。例えば中国人が差別される原因として、列に並ばずに横入りするという原因があるのであれば、その風習を変えればよい。道端に唾を吐くのを止めればよい。それを止めたら文化が損なわれるという類のものではないのだから。

例えばアメリカの黒人差別の原因が貧困や野蛮という側面にあるのであれば、それを変えるべきだ。教育を施して教養を身に付けさせ、学問の道で優秀な成績を収めるのもありだろう。ビジネスを学びお金儲けをするのも良いだろう。スポーツ選手になって人々を感動させるのも良いだろう。

時間をかけて、そういった結果を出していけば、必然的に全体的なネガティブなイメージは払拭されて、より平等な社会にすることができるはずだ。

自分たちは差別されている、差別を無くせと街を徘徊し、暴力的な抗議をしても問題は解決しないばかりか、人々の嫌悪の感情を逆なでして、さらに差別を助長させる。

そうではなく、地道に努力するべきだ。学ぶべきだ。ストリートで悪事を働くことを考えたり実行したりする時間と労力があるのなら、勉強をすれば良い。白人に迫害されてチャンスが平等でないのなら、黒人相手のビジネスから始めればよい。プログラミングを学んで革新的なサービスを創り出して世界を変えてしまうほどの影響を与えればよい。

そうやって自らが努力する事で少しずつ差別はなくなっていくのだと思う。素晴らしいことをたくさんしていれば、人々が見る目は変わるのだから。

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